放浪の向こう側 Another World

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オススメの映画サントラCD選んでみた

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映画のサントラが好きだ。

その音楽に惹かれてというより、その映画の世界観がまるごと好きな場合が最も多い。

最近は久しくCDを買わなくなってしまったが、過去に買ったサントラで「何年経ってもこれはいい!」というものを、主観で選んでみた。

選考基準は、音楽からその映画の世界観をまるごと感じられるという点。

 

1.バッファロー66

この映画は正直言って、全体的になんなのかよく分からない映画だ。

しかし、だからといってよく分からないの一言で片づけるのではなく

むしろそこから芸術性が始まっているような気がしてしまうもの

ヴィンセント・ギャロという、俳優というよりむしろ芸術家の手にかかっているからではないだろうか。

 

大人に成りきれていない青年の幻想でもあるその世界が、

色彩を抑えたグレートーンで広がっていく。

その世界にそっと寄り添っているような音楽。

全体を通して、甘い響きの中にどこか虚無感が漂っており

主人公の心象風景を現わしているようだ。

 

Yesの“Heart of sunrise” も痺れるし、 “Sweetness”も泣けてくるのだが 

やっぱりなんと言っても、クリムゾン・リバーの“Moonchild”である。

この曲がこの映画のすべてを語っているとも言える。

 

ボーリング場で映画のヒロイン役のクリスティーナ・リッチ

突然スポットライトがあたり、唐突にタップダンスを始めるシーンのBGMになっている。

(この曲でタップダンスを踊るという設定も渋すぎて痺れる)

 

初め映画を観た時は、これは謎の演出だった。

しかし“Moonchild”の歌詞の内容が、

夜の闇の世界で自然の聖霊や木々や鳥たちと楽しく戯れている「月の子供」

その「月の子供」は、朝になって迎える「太陽の子」に想いを馳せる…

という寓話のような美しいお話であると知った時、

“Moonchild”「月の子供」はギャロ演じる主人公の男を現していて、

「月の子供」が待っている「太陽の子供」がクリスティーナ・リッチではないかと

ふと思ったのである。

 

不器用な純粋性が、寓話のような優しい世界で包まれた安らぎの瞬間。

観るものはその想いを、想像の世界に馳せてどこまでもトリップしていけそうな 

そんな作品である。

 

2.アメリ

これは上記のバッファロー66とは真逆で、原色をベースにした映画。

サントラの音楽からもその鮮やかな色彩感が広がっている。

そしてこの作品も、音楽と主人公の心象風景の関連性がはっきりと感じられる。 

 

妄想に耽ってばかりいる、オタク気味の少女アメリ。

彼女の中で常に自己完結していて、閉ざされている世界は

スローモーションのように、時にメランコリックに流れていた。

 

しかしその現実が動き出す。

開かれた世界に向けて走り出す躍動感。

 

そして、そこにはまた、フランスの風を感じることができる。

モンマルトルの丘から見える風車や、クリームブリュレ。

アコーディオンやピアノの古典的な音楽で

フランスのモチーフが音になって表現されている。

オルゴールの音がちりばめていたり

少女の夢を叶えてくれるような。

映画だけでなく、サントラからも楽しい夢を観させてくれる作品。

 

3.ロック、ストック&トゥースモーキングバレルズ

とにかく格好良くて爽快で、ガイ・リッチ―のセンスの良さが溢れだしている作品。

Fワード連発のクライム映画なのに、どこかしら上品な仕上がりになのは

さすがUK映画ならでは。

映画のセリフ(バリバリのイギリス英語)がサントラCDの所々に入っているのも

乙な計らい。

 

ロック・ポップス・ソウル・レゲエと、様々な音楽が交じり合うことで、

アンダーグラウンドの世界を陽気に、鮮やかに創り上げている。

これはあまり深く考えずに、ただ爽快に気持ちよく聴きたいところ。

 

4.平成風俗 

最後はこれまた様々な要素ミックス系の優美なマーブル模様のような

映画「さくらん」のサントラ。

すべての楽曲は椎名林檎が手掛けている。

この映画の監督である蜷川実花の世界観と恐ろしいほどに美しく融合している作品。

花魁の世界をこれほどまでに芸術的に音楽で表現できるアーティストは

椎名林檎の他にいないのではなかろうか。

優美できらびやかな表面的な部分と、陰気で壮絶な内面的な部分

その両極を美しく奏でている。

 

頂点に上り詰め乱舞する狂気的な女のサガ、栄枯盛衰という刹那的な現実にたいする厭世観。残酷なおとぎ話のような世界を創りだしている。


個人的に好きなのは、5曲目の『パパイヤマンゴー』。

唯一明るい曲調のこの曲は、一瞬の淡い夢を形どっているようだ。

そうした一瞬の栄華が夢のごとく、“夢のあと”という曲で終焉を迎える…

と思いきや、最後は“この世の限り”でまた明るく生まれ変わろうというメッセージを残して爽快に軽やかに幕を閉じるのだった。

どこかミュージカルのような曲調で、それはあたかもすべてが人生の舞台であるかのごとく。

これには聴き終わって、思わず「お見事!」と拍手を送りたくなった。

 

オーストラリア初めてのOutback 赤土のオフロードへ

前回からの続き
 ジンベイザメと泳ぐ旅で出会った台湾人。
 彼らの次の目的地は私がぼんやりと願っていた場所カリジニ国立公園だった。
 ここから初めてのOutbackの旅が始まる。

道中はこれぞまさしくオーストラリアの砂漠といった、地球の果てのような乾いた赤土がどこまでも広がっていく風景だった。
何時間も代わり映えの無い平坦な風景なのに、無性にワクワクするから不思議だ。
車を走らせること7時間。私達はカリジニ国立公園近くの小さな町、Tom Princeに到着した。この町のキャラバンパークにテントを張って、3日間寝泊まりをすることにした。

初めてのキャンプ生活は、思っていた以上に楽しいものであった。

朝は太陽と共に目覚め、

夜はシャワーの蛇口を回し過ぎて、お湯が大放水するというハプニングで着替えがすべて水浸しになったりもしたが、それも今となってはよい思い出である。

到着した翌日は、近くのNameless mountain(直訳すると、名もなき山)に登り、登山の面白さに目覚めることになる。

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“名もなき山”の頂上で佇む私

そして3日目に、カリジニ国立公園へ向かう。

この場所への道のりは全くといっていいほど舗装されていないため、交通手段は4WDの車か、バスとなる。

私達はまたしても地元のツアーに参加し、
オーストラリア人達と共に四駆で揺られながらカリジニ国立公園に到着した。

青空と赤い岩とのコントラストが見事で、未だかつて見たこともない自然の色彩コーディネートに魅了されていた。
それはどこかアフリカのサバンナを彷彿させる風景でもある。

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赤土と青空のコントラスト

海にはジンベイザメも泳いでいて、陸はアフリカのサバンナが広がるというオーストラリアの多様すぎる生態系には本当に驚かされる。

この様に、目の前にめくりめく壮大な景色が広がっていくのだが
比較的行動範囲が限られていたツアーだったためか、自分の全体感覚を通しての感動という感じではなかった。
きっと期待していた部分もあるからかもしれないが、前日に自力で登った“名もなき山”の感動が大きく上回っていたことは確かだった。

オーストラリア ジンベイザメと泳ぐ旅

それはシドニーのシティでくすぶっていた時のこと。

 

ふと手帳を開くと、オーストラリアでやりたいことリストに

ジンベイザメと泳ぐ」という走り書きを目にする。

自分では書いたことをすっかり忘れていたが、

その時、直感で「よし、ここに行こう!」と決めた。

 

このように軽いノリで決めたのだが、実際の距離感でいうと

シドニーからまずパースまで3900㎞、さらにパースから目的地のエクスマウスまで1200㎞の道のりである。

しかしオーストラリアほどの巨大な国にいると、距離感覚というものまで麻痺していくから不思議だ。

まるで、胃袋が拡大と収縮を繰り返すように

感覚というものも、環境に合わせて更新されるものみたいだ。

もっともこれは一か所に留まらず、各地を旅したことで得られたものかもしれない。

ひとつの小さな場所にただ停滞しているだけでは、世界が広がらないのと同じで。

 

そんな話はさておき、私は飛行機にのって

東の大都市シドニーから、西オーストラリア随一の都市パースに飛んだ。

そこから小型飛行機に乗り、ジンベイザメと泳げることで知られているエクスマウスに到着する。


到着した日は激しい雨が降っていた。時間の際限がない私は、近くの情報センターでのんびり雨宿りすることにした。

 

待っている間、ベンチの隣に座っていたオーストラリアの女性と話をしていた。その女性は車でこちらに向かっている旦那さんを待っているそうで、

「雨がすごいし、宿まで乗っけて行ってあげるわよ」と親切に言ってくれたのだ。なんともありがたい。


私は実はまだ宿が決まっていないことを告げると、町に数件あるキャラバンパーク(基本的にはキャンプ場だが、ここの町には宿泊施設があった)を車で一緒に巡ってくれたのだ。

私は、そのご夫婦が以前泊まったことのあるオススメのキャラバンパークに泊まることにした。 

ご夫婦の奥さんが「私達も昔二人で色んな国を旅したのよ。あなたと話していて、それが蘇ってくるようで楽しかったわ!」と言ってくれ、

私はぎゅっとハグをして別れた。素敵な出会いだった。

 

まさか異国の地において、キャラバンパークで一人で泊まるという経験をするとは、数ヶ月前日本でOLをやっていた頃の自分には想像もできないことだった。これから旅を重ねるにつれて、それはなんともないことになるのだけれど。


翌日、昨日までの雨は嘘のように空は晴れ渡り、西オーストラリアの太陽のお目見えである。

そして早速ジンベイザメと泳ぐツアーなるものに申し込んだ。

ツアーはちょうど残りの一席だったようで、何やら運命めいたものを感じる。更には日本人ですと言うと、ノリの良いオーストラリア人ツアーガイドはなぜか50ドルまけてくれたのだった。

 

その日の夜、同じキャラバンパークに泊まっているドイツ人カップルと仲良くなり、この辺りで有名なStaircase to the moon(月への階段。月の光が海面に反射して、階段のようにみえる現象)を見にいくから、一緒に行かないかと誘ってくれた。

地球の歩き方などのガイドブックには、この月への階段はBroomという場所で見られると書いてあったのを思い出したが、案外どこでも見れるかもしれない。

参加者は、ドイツ人カップル、オーストラリア人の中年男性、私の4名。


夜の海を目指して車は走り出した、が、正しい場所を知っている者が誰もいないことが判明する。しばらく走り続けると、荒涼としたオーストラリアにふさわしく、携帯の電波もつながらなくなり、皆の野生の勘だけを頼りに車を走らせる。もちろん街頭などない、ただの漆黒の闇の中、もはや自分達が一体どこへ向かっているのかすら分からない。

もう見れないんじゃないか…と、おそらく全員があきらめかけた時、私達の目は前方左側に光る球体と、その下からうっすらとのびるている光の階段をとらえたのだ。

海と月を見つけた私達は、海辺に到着するやいなや車から飛び出した。

目の前の海に映るのは、静寂の中の光のイリュージョンであった。この日はちょうど満月で、絶好の月への階段日和と言えよう。私達は砂浜に座り、しばらくの間その景色をぼんやり眺めていた。


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もはや昨日の想像すら何もかもが現実味を帯びておらず、毎日が大きく更新されていく。明日のことだって、何一つ予想できない。大きな流れに身を委ねる以外、なすすべはないのだ。旅に出て、それを初めに感じたのが、この日だったと思う。


帰りの車の中で、ドイツ人カップルが「北西にあるカリジニ国立公園は是非行くといいよ。」と言われ、私の中でぼんやりと次の目的地が決まりつつあるのだった。

 

そして翌日。ついにメインイベントのジンベイザメと泳ぐ日だ。

この日も晴天で、気持ちは高鳴る。ツアーは現地の会社が運営しているもので、もちろんオーストラリア人がガイドとインストラクターである。

彼らは皆とても感じが良く、明るくツアーを盛り上げてくれた。

参加者は15名ほどの少人数で、小学生ぐらいの子供がいる家族連れやカップルが多く、とても和やかなムードだった。移動中も船の上でも、終始温かい雰囲気だったのをよく覚えている。


沖に出てから1時間程経過した頃だろうか、私達はジンベイザメの群れと出会うことができたのだ。それは想像を超える美しさであった。

動物に対して、美しいという感情を抱いたのも、初めての体験である。

確か、私が小学校4年生の時、大阪の海遊館で初めてジンベイザメを見て、その大きな生き物が水槽いっぱいに優雅に泳ぐ様子に感動したことを思い出した。

あの時10歳だった私が大人になった今、こうしてジンベイザメと一緒に並んで泳いでいることを思うと、何とも感慨深いものがある。


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また、このツアーで私は一人の台湾人と友達になった。聞けば明日から、友達と車でカリジニ国立公園に行く予定なので、よかったら同乗しないか、と言う。 昨日ぼんやり定めた目的地が今日既に実現しようとしているなんて!願ってもなかったチャンスを掴み、私は荷物をまとめて彼らと一緒にカリジニ公園へと向かうことになった。

洋楽の和訳 Perfect Day - Lou Leed - 美しい陰鬱ロック

Lou Leed ルー・リード (1942-2013)
アメリカニューヨーク州ブルックリン出身のミュージシャン。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのボーカル兼ギタリスト。その後1970年に脱退してからはソロ活動を行う。
前衛性とポップさを兼ね備えた斬新かつ挑戦的な音楽性、陰翳と知性に富みな柄も様々なスタイルを持つヴォーカル、音像を形成する上で欠かせないオリジナリティ溢れる独創的なギター・プレイ、人間の暗部を深く鋭く見つめる独特の詩世界を持ち、同時期にデビューしたデヴィット・ボウイを始め、後のパンク・ロック、引いては音楽業界全体に及ぼした影響は計り知れない。ロック・ミュージックにおける芸術性の向上、そのイノヴェーションに多大な貢献を果たした、20世紀以降における最重要アーティストの一人である。
 
 
ルー・リードの存在を知ったのは、彼がなくなる数ヶ月前のことだった。
当時のシェアメイトが、この Perfect Day を聴いていて
心に沈み込む感動があったことを覚えている。
この深くひきこまれるメランコリックな詩と
それをあたかも抱擁するような穏やかなメロディー。
 
映画、「トレイン・スポッティング」の挿入歌にも使われているこの曲は
ドラッグ依存について歌ったものだと言われているが
ドラッグにとどまらず、何かに依存して生きる刹那、人間の性(サガ)のような
どこか壮大なテーマを感じる。
 
躁と鬱とロックの融合。
ここに彼の天才的な芸術世界が広がっている。
 
曲の冒頭では何気ない日常のひとコマが流れていく
しかしそれを支えているのは非現実的な健全ではない何か
自分の命をかろうじてつなぎとめている存在
そこに映るのは、本当の自分とはかけ離れた自分。
そしてそれは、長くは続かないことはわかっているのだ。
 
最後の一節は人生におけるカルマを表わしている。
 
You're going to reap just what you sow 
自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
(今自分が直面していることは、過去に自分がしてきたこと)
と、4回繰り返し、何かの予言のように語られている。
 
これは私達に対する警告とも受け取れる
それとも、主語はYouだが、自分に向けてこの言葉を
反芻しているのだろうか。
 
 
シンプルな詩だけれど、そこに放たれた意味に想いを馳せてみると
非常に聞きごたえのある一曲。
 
 
Just a perfect day 
ただただ完璧な一日だ
Drink Sangria in the park 
公園でサングリアを飲んで
 
And then later 
When it gets dark, we go home
そして、その後
辺りが暗くなって、僕たちは家路に着く 
 
Just a perfect day
ただただ完璧な一日
 
Feed animals in the zoo 
動物園で、動物達にエサをあげて
 
Then later 
A movie, too, and then home 
それから映画でも観て、そして家に帰る
 
Oh, it's such a perfect day
あぁ、なんて完璧な一日なんだろう
 
I'm glad I spent it with you
Oh, such a perfect day
そんな完璧な一日を
君と一緒に過ごすことができて僕はとても嬉しいよ
 
You just keep me hanging on 
You just keep me hanging on 
君は僕をかろうじて生かしてくれている
君は僕をかろうじて生かしてくれている 
 
Just a perfect day 
ただただ完璧な一日
 
Problems all left alone 
問題はすべて置き去りにして
 
Weekenders on our own
It's such fun 
僕たちだけの、週末の楽しみなんだ 
 
Just a perfect day 
ただただ完璧な一日
 
You made me forget myself
君は僕が何者であるかを忘れさせてくれる
 
I thought I was 
Someone else, someone good 
なんだか自分が、誰か別の善良な人間のように思えたんだ 
 
Oh, it's such a perfect day
あぁ、なんて完璧な一日なんだろう
 
I'm glad I spent it with you
Oh, such a perfect day
そんな完璧な一日を
君と一緒に過ごすことができて僕はとても嬉しいよ
 
 
You just keep me hanging on 
君は僕をかろうじて生かしてくれている
 
You're going to reap just what you sow 
自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
You're going to reap just what you sow 
自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
You're going to reap just what you sow 
自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
You're going to reap just what you sow 
自分の蒔いた種は、すべて刈り取らなくてはいけない
 

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奇跡の洋食屋さん 

そのお店は、駅に隣接した店舗で3階にある。

店舗というか、実は百貨店でありながらも

3階にはこの洋食屋さんのみで、他のテナントは随分前に撤退してしまったようだ。

 

ガランとしたスペースの奥に、こじんまりと構えているこのお店。

懐かしの食品サンプルがショーケースに飾られていて、

店に入る前から、既に昭和ノスタルジーの世界観が広がっている。

不思議な小説か、ちょっと夢の中に出てきそうな佇まいだ。

 

店に入ると、そこは古き良き昭和の舞台だった。

高齢のご夫婦できりもりされているこのお店。

御主人が料理を作り、奥さまが接客をしている。

空気感が、お店というよりも、家庭という温かさ。

席に着いてカニクリームコロッケとハンバーグにライス付きを注文した。850円。

 

それは、今まで食べたことのない味だった。

 

カニクリームコロッケの中の、カニのしっかりとした存在感。

濃厚なのに、もたついていないクリーム。

付け合せのサラダの野菜が生きている。

花形に切り取られたニンジンがちょこっと添えられて。

ケチャップのスパゲティが絶妙な味加減で。

ハンバーグも素朴で優しいお母さんの味。

 

すべて総称すると家庭的という言葉に落ち着くのだけど 

優しい味とか、そうゆう意味ではない。

 

あの方たちは、ご自身の愛するご家族にも

きっと同じものを食卓に出されているんだろうなぁと

大袈裟かもしれないけれど、分け隔てない優しさを感じた。

料理というものに、感情って乗り移ることができるんだなと。

 

 

ファミレスはファミレスのマニュアル的な味、

おいしい有名な洋食屋さんは、それはそれで安定感があるが

どこか似通った味。

 

でもこのお店は、そのどこにも属さないような

おいしさ。

 

そうゆうお店って今はとても稀有だと思う。

 

昔はこうゆう食堂がたくさんあったのかな。

ファミレスやチェーン店が台頭し始めてから生まれた世代の私にとっては

昔見た懐かしい風景ではないけれど、何か込み上げてくるものがあった。

私以外のお客は、一人で来ている中年男性が多かった。

きっと懐かしさを感じる場所が、誰だって必要なんだ。

 

今や、少し前のカフェブームから始まって

オーガニック自然食ブーム、そしてSNSの普及で

インスタ映え”なる言葉が流行りだし、インパクトのある写真をアップして

いかに注目を浴びるかが外食業界を盛り上げている。

 

芸術作品のような美しい料理は、見る人の心を豊かにするし

素適なものだと思うが、ただバカでかいボリュームを売りにしたり

どう考えても食べきれないような量の盛り付けで奇をてらったり。

食べ物を粗末にしていて、食べ物に対しての愛情を全く感じられないし

見ていて痛々しい気持ちになる。

 

食が豊かになるってこんなことなんだろうか。

食が豊かになったことの副産物が、こんなことなのだとしたら

それはただただ悲しい。 

 

ただ食べ物を美味しく頂く、ということに満足できなくなってしまった

人々の心のさもしさか

フランチャイズ業界台頭による競争激化によるものか

いつしか、外食することになにかしらの付加価値を付けるようになってしまった。

 

余剰な豊かさはいつも弊害を招き、本質を見失ってしまう。

 

目の前にある料理を味わうこと

人とのコミュニケーション

その空間そのものを感じること

そして一番大切な、料理を作ってくれた人への感謝の気持ち

 

悲しいことに、一時の使い捨てのお店だけが増えていく。

それはどんどん形骸化しつつあるこの国の体制そのものを

よく表しているなぁと、感心すらしてしまう。

 

いまや食を楽しむという原点から

どんどん遠ざかっているように感じる。

 

そんな世間の流れに媚びることなく、かといって張り合うわけでもなく

優しさをひっそりと守り続けているこのお店に

ただただ尊敬の気持ちでいっぱいになった。

 

おいしいお料理を、温かく優しい空気の中で味わう。

そんな当たり前のことが、この時代には奇跡に近いことになっているように感じた。

 

だから、このお店は私の中で奇跡の洋食屋さん。

 

どうかどうか、これからもお元気で

長く続いてほしいな。

 

 

 

 

 

アシュタンガヨガとの出会い

アシュタンガヨガ始めました。

 

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昔、南インドを旅した時に撮った写真 この時はまだ南インドにアシュタンガヨガの聖地があるとは全く知らなかった

 

アシュタンガヨガとは、

シュリ・K・パタビジョイス(1915~2009)によって構築された、

流れの中で動作と呼吸を一致させ、決められた順番に従ってポーズを行うヨガスタイル。

アシュタンガヨガは一連の動きを覚えて、ポーズの順番ややり方、呼吸と動作のみに集中できる。そうすることで、独特な瞑想状態が生まれる。

参考文献:「Yogini vol.64」より

 

 

ただ漠然とヨガをやっている、というのと

アシュタンガヨガをやっているというのでは

意識レベルがこんなにも違うのか!

とアシュタンガヨガ歴1週間の私はすでに実感している。

 

自分が今何をやっているのか?

意識をもつ、ひいては自分の現在地を確認することで

集中度は驚くほど高まる。

 

平たく言ってしまえば、同じことの繰り返しなのだが

その中で感じる感覚は二度として同じものはない。

これは当たり前のこと、なんてったって諸行無常は世の常なのだから。

しかし、これを実際に体感できるのがアシュタンガヨガなのだ。

 

またとない「今」ある感覚に気づくか気づかないか、

それを、楽しむのか苦しむのか、受け入れるのか、拒むのか

囚われるのか、手放すのか…

 

ヨガは人生の縮図である。

レッスン後にそんなことを想い、しばし感慨に耽っているのであった。

 

ブランキージェットシティをこよなく愛していた15歳の自分が、三十路手前になった自分を導いた話

 

「僕の心を取り戻すために」会社を辞めた


Blankey Jet City 僕の心を取り戻すために

 

大学を卒業後、英語を使った仕事をしたいという漠然とした動機で

地元企業に就職した。

将来のビジョンなんて、とくに持ち合わせていなかった。

アメリカ留学から帰国したばかりの私は

とにかく英語だけが武器で、これで世の中を渡っていけるのだと

甘い考えしかなかったのだ。

ただなんとなく就職した先は、ただなんとなく時間が流れ

稼いだお金も、ただなんとなく消えていった。

 

組織に適合していくために、周囲の求める人物像にシンクロしていく。

より社会性のある大人を目指して

社会というものが自分を塗り替えていく。

 

これは少しずつ自分を失っていく作業なんだと

気づいた頃には、もう社会人になる前の自分が

はっきりと思い出せないようになっていた。

 

ふと立ち止まってみても、一体これから自分がどこへ向かっていくのか、

何をしたいのか分からずに途方に暮れた。

 

考えてみるも自分の心の声は遠く、聞こえることもなく

また、目の前の課題を事務的に片づけていくだけの日々が続いていく。

 

しかし、唯一自分を知っている感覚が私の中に残っていた。

社会における役割を担う前の自分だ。

 

それは15歳の頃の自分だった。

 

15歳の時

私はブランキージェットシティという日本のロックバンドに出会い

衝撃をうける。

それは魂を射抜くような音楽だったからだ。

 

世界の果てにある

行ったことはないはずなんだけど、

なんだか知っている風景。

彼らの音楽を聞いていると、そんな世界が広がって

心象風景にぴったりと寄り添うのが不思議だった。

 

退廃的だけど、美しくて

野生的だけど、どこか神秘的で

ブランキーの音楽は、言うまでもなく芸術なんだと思う。

彼らは音楽という刹那的なアートを創造していた。

 

もう一度、その音楽に身を委ねてみた。

重低音が腹の底から響き

魂が少しずつ、ビートを刻みだすように

眠りから覚めていった。

 

15歳の自分に手を引かれるように30歳手前の自分は

ただ何となく生きる、人口無機質の世界、意識からの脱出を図る。

会社を辞めた。そしてオーストラリアに行く。

そこから冒険の旅が始まったのだった。

 

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